■ 『街場のメディア論』(内田樹)

10年間外国にいて、戻ってきたら、「ニュースステーション」のメーンキャスターが古館伊知郎になっていた。あ、番組名も変わっていたのね。「ミュージック」、ちがった、「報道ステーション」(wikipediaで調べました)。というわけで、遅ればせながら「初めて」この番組を観て、驚いた。なんて、「それっぽい」のだろう、と。

次のニュースが「悪いもの」なのか、「お口直しのソルベ」的な「良いもの」(たとえばカルガモ親子のお引越し)なのかは、直前の「それでは、次のニュースです」という声のトーン、いや、正確にはその手前の息継ぎのときの表情でわかる。ツレアイから「お前はほんまに空気読めんやっちゃな」と言われる私が過たずにわかるくらいだから、もちろん、わざとそうしているのだろう。このような、自分がこれから言おうとしていることの意味、さらにはその効果まで計算し尽くしてから発せられるセリフは、しかし、すでにニュースのものではない。それは、演劇である。

良いことも悪いことも、ともかくさまざまな新しいことたち(NEWS)を伝えるのが、キャスターだと思っていた。が、本邦のキャスターは、善悪の判断までしてくれる。本来それが本職と思われる画面端の解説者は、予めキャスターが示した筋に乗って、若干の「専門的」っぽい情報を付け加えるくらいだ。(まるで、日本の情報誌にスペイン在住ライターとして記事を書いていた私が、wikipediaで情報を調べた日本の編集者から記事の大筋を示されたのち、「こことここに、現地の生っぽい情報を入れていただいて」と指示されたように)
そして満足そうに「付け足しの解説」に頷いたキャスターは、「われわれ国民」を代表して、しかしあくまで傍観者として、「けっして許されることではありませんね。なんとかならないものでしょうか(=誰かがなんとかしてくれなくては困るよね)」と憤ってみせてから、「さて、」と次のニュースに移る。


なお、この「筋」の構造上、ニュースの俎上に載せられたひとは、「われわれ国民」のメンバーとしてはカウントされない。村八分にされた彼らは、人権なんて無きが如くに血祭りにあげられ(あるいは祭りあげられ)、そして祭りのあとにはすっかり忘れられる。極めつけに、一年の終わりはサブちゃんの「♪祭だ 祭だ」で、ぜんぶ水に流しておしまい。ああ、あてらニポン、『世間胸算用』の国ですよって。

おそらくこの古館伊知郎だけでなく、木村太郎安藤優子鳥越俊太郎も、そしてヘッドラインを句読点付きの「文章」で表示することで当該番組内のニュースは「事実」ではなく「人為的に演出されたもの、詩的なもの」であることを明示してみせた点で画期的なNEWS ZERO村尾信尚も、程度の差こそあれ、みな、優れて「キャスター的」「メディア人」的であるのだろう。
ただ、これは下種の勘繰りだけど、プロレスという異なるフィールドから来た古館伊知郎が、よりキャスター的であろうとしたために、より戯画的な振る舞いをしてしまっているのではないのだろうか。そしてそれが、「おかしいね」ではなく、「うん、キャスターっぽいね」と(少なくともメディア島では)受け入れられている。たぶん、そういうことなのだろう。


内田樹氏の最新刊『街場のメディア論』(光文社新書)に、こういうエピソードが紹介されている。内田氏のもとに取材に来た、「『おじさん』系」の雑誌の編集者。思いがけず、20代の女性だった。「書くの、たいへんでしょう」と訊くと、「別に」という返事。曰く、「この週刊誌では記事の書き方に『定型』があるので、それさえ覚えれば、若い女性もすぐに『おじさんみたいに』書けるようになるからだ」と。「それはちょっとまずいんじゃないか」と、内田氏は思った。(p88)


とすると、その週刊誌の記事を実際に書いているのは、生身の人間ではなく、「定型的文体」だということになるからです。そこに書かれたことについて、「これは私が書きたいと思って書いたことであり、それが引き起こした責任を私は個人で引き受ける」と言う人間がどこにもいないということだからです。

私が(キャスターの)古館伊知郎を観たとに感じる「いたたまれなさ」、それは、生身の古館伊知郎の不在感にあるのかもしれない。10年ぶりに帰国して目の当たりにした、日系航空会社のキャビン・アテンダントの笑顔、299円の料理のオーダーを受ける居酒屋の店員の片膝ついた低い姿勢、紅白歌合戦で「倖田來未(あるいはリア・ディゾン、今年はAKB48か)のパンチラを見たいエロ親父」の役をふられる前川清堀内孝雄の「加トちゃん眼鏡」に感じる「いたたまれなさ」と同じで。

あらまほしき姿を粛々と演じる素直な民に、幸多かれ。……でもさ、「素直なメディア人」って……。いや、ここまで古館伊知郎をはじめとする「メディア人」が、自分を殺してまで自己模倣的に誇張して演じてくれるからこそ、観ているこちらは正しく違和感を覚え、おそらくニホンな社会とニホンジンな自分の中にある「違和感」の根源を自省する機会を与えてくれるという、ひょっとしたらトリプルアクセルな技なのかもしれないけど。これがもうちょっとがんばって四回転したら、ぐるりと元に戻るから、どうぞ半回転残したあたりでお願いします。ってなんのこっちゃ。


話がズレちゃった。ほんとうは、『街場のメディア論』の感想文を書きたかったのだ。この本、メディアと題打っていても、そこはコミュニケーションの話。「沈黙交易の起源から、人類の終わりまで、SF的想像力」を(読者も一緒に)「駆使して」、「『ものそれ自体に価値が内在するわけではなく、それを自分宛ての贈り物だと思いなした人が価値を創造する』という公理」(p184)を縷々と説く、いや、例によって笑いながら読んでいるうちになんとなくわかった気にさせてくれる、すごおく素敵な本。

もちろんコミュニケーションという人間の基幹をなす話に及ぶとはいえ、メディアにフォーカスしてあるので、これを読むと、なぜ大型台風到来のニュースを告げるキャスターが「みなさん、くれぐれもご注意ください」と神妙な顔で告げながらも、どこかうれしげな気配がするのか(逆に、大過なく台風が通過し、凪いだ海を背景にした現地からのレポートをスタジオで受けるキャスターが、なぜどこか「がっかりしたかんじ」なのか)、わかります。

そしてもちろんこの文章も、この本を読まなかったら書いていないわけで。「ああ、すごいものを受け取っちゃった。こりゃ早く、誰かにパスしなければ!」と、熱いところを駆動させてくれるウチダ・ヴィークル。今回も見事に乗せられました。
だから、どうかセンセ、「ウチダ・バブルなんだよ〜。だから僕はもう書かないって」なんておっしゃらず、また書いてくださいね。「定型」の瓦解した明日をごきげんに生き延びるためのヒントを、「世界」をしっかり自分を勘定に入れて語るためのボキャブラリーを、どんぞ教えてください。(そしてサイン本をいただき、ありがとうございました)


街場のメディア論 (光文社新書)

街場のメディア論 (光文社新書)