◇ こどもたちは、徹底的に信頼されます。


「お腹が空くのは、時計ですか? それとも、目の前の赤ちゃんですか?」
5年前、そう問いかけるスペインの育児本に出会って強い感銘を受け、これは日本のママたちにも紹介せねばと使命感のようなものに突き動かされて日本語訳から出版まで奔走しました。
どうしてこの本(邦題『うちの子 どうして食べてくれないの?』カルロス・ゴンサレス著)にそれほど惹かれたのか、「リベルタ学舎」を準備するうち、ようやくわかってきました。
キーワードは、「自己決定」です。


オギャーと生まれた赤ちゃんが、母親の腕の中ですやすや眠っている。やがて目を覚まして、フギャーと泣く。「あら、お腹が空いたのかしら?」 おっぱいをあげて終わり……とはなりません、現代。
さすがに「授乳は3時間おき、片方のおっぱいを10分ずつ」なんて眉ツバな「科学的」指導ブームは去ったものの、巷には「赤ちゃんには一日○cc」という推奨があふれ、哺乳瓶には目盛りがつき、「飲み残したけど大丈夫かしら」「飲み過ぎじゃないかしら」と常に悩みが尽きません。
フェーズが離乳食に移っても、「そろそろタンパク質を始めないと」「ニンジンのピューレ、一口は食べてくれないとビタミンが」「ホウレンソウ、やっぱりゴマ和えにしないとバランスが」と、悩みはいよいよ募るばかり。


それはそうです。
「生後すぐの無加工の牛乳・ハチミツ・生エビ」など赤ちゃんの生死にかかわるほんの僅かな禁忌以外に、世界的な合意に達した授乳/離乳食のルールはないのですから。
つまり、授乳・離乳食という「赤ちゃんの食」については、正解なんてほとんどない。
唯一の正解があるとすれば、それは、「目の前の赤ちゃんの食欲にあわせる」ことだけです。どこかの専門家ではなく、目の前の赤ちゃんの生命力を信じ抜き、寄り添う親としての自分の判断力を信じて。


なのにこどもたちは、「もうお腹いっぱい」も、「今日は胃が重くて肉類は受け付けないの」という訴えも、ほとんど聞き入れてもらえません。

食がそうなら、もうひとつの生物としての基本的行為、排泄についても同じです。

生まれて数年間、「しっかり吸収し、逆戻りなしで、肌触りサラサラ」なオムツに無感覚におしっこしてきたのに、急に「もう3歳だからトイレ・トレーニングね」とおまるに座らされ、したくなくても「チー、でるかな?」と促されます。朝起きてまずトイレに、お出かけ前にトイレに、だから公園にはばっちいトイレしかないからおうちでしとこうって言ったのに!


まだことばが出ないこどもたちが全身で抵抗するのが、「強いられる食事」と「強いられる排泄」というのは、育児経験者なら誰もが頷かれるのではないでしょうか。

生き物の基本である食事と排泄を、他人にコントロールされるというのは、やはり相当耐えがたいことなのだと思います。

私たち大人は、仕事の都合にあわせて、朝8時、昼12時、夜6時に食事をします(でも、日曜はその限りではありません。江戸時代は二食でした)。また外出の都合にあわせて、朝家を出る前に排泄をし、昼は状況に合わせて排泄し、夜帰宅してから排泄をします。
テレビで見る限り、刑務所だって、各部屋の中にトイレがあり、出された食事を残しても問題ないようです。ということは、私たちがこどもたちに強いているのは、「それ以上のこと」です。


さらに大きくなれば、遊びの内容から服装に至るまで、大人が先回りして「いいもの」を選びがちです。
いったいどうやってそこから、「健やかな自己肯定感」が生まれるでしょう?


外部評価に基づかない「Self Repect」という意味での自己肯定感を基礎づけるのは、「自己決定」ではないかと感じています。
あの日スペインの育児本が私に訴えてきたのは、おそらく、この「こどもを、とことん信じ抜きなさい。こどもに、自己決定させなさい。こどもの人生は、こどものものです」というメッセージでした。



新しい学びの場、リベルタ学舎のオラリオ(時間)は、大きくふたつのパートにわかれます。

前半(幼稚園・小学校が終わってから午後4時前後まで)は、「学童」のイメージ。

ただし、大人の判断でなにかをさせるのではなく、こどもたちの「自己決定」の時間です。といっても、「それぞれ、好き勝手にやりなさい」でもなく、異年齢のこどもたちが集まるグループで、その日やることを決めます。
一緒にいるチューターのお兄さん・お姉さんは、安全面でのサポートを中心に、「ライ麦畑のキャッチャー」として、こどもたちにかかわってもらいます。

ホールデン・コーフィールド少年は妹のフィービーに「好きなこと」を問われて、自分がやりたいたったひとつの仕事についてこう語る。

「だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、小さな子どもたちがいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、僕はいつも思い浮かべちまうんだ。何千人もの子どもたちがいるんだけど、ほかには誰もいない。つまりちゃんとした大人みたいなのは一人もいないんだよ。僕のほかにはね。それで僕はそのへんのクレイジーな崖っぷちに立っているわけさ。で、僕がそこで何をするかっていうとさ、誰かその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。つまりさ、よく前を見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子どもをさっとキャッチするんだ。そういうのを朝から晩までずっとやっている。ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ。」
(J・D・サリンジャー、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』、村上春樹訳、白水社、2003年、287頁)

内田樹研究室「お掃除するキャッチャー


この難しい役割を中心となって担当してくれるのが、前回ご紹介した新スタッフの「お姉さん」です。

私と同じ内田樹師範のもとで合気道を学ぶ姉弟子(歳は私よりずっと下)で、有段者。明るく柔らかな人柄でみんなに愛され、そしてこどもの教育について非常に強い情熱をお持ちの方です。
卒論はこどもの非行についての論考で、学童保育での指導経験もあり。なにより、「子どもにだけでなく、親にとっても、フラットな、外での装備を脱ぎ捨てて、在ることが出来る、第三の場的なものになれたら」という理想もしっかり一致しています。


学校では一律の時間割のなかで勉強内容からトイレや食事の時間まで決められた時間を過ごすこどもたちが、「仲間と愉快に過ごす」ことだけを約束事として、自分のすることを自己決定していく場。
こどもがお互いに学びあい、育ちゆく、おおらかな時間。
それが、リベルタ学舎の「学童タイム」です。


おやつだって、大人がクッキーを2枚ずつ配るような時間にはしないつもりです。
どこまで状況が許すかわかりませんが、みんなでおにぎりを作ってもいいし、スイカ丸ごと一個を渡してこどもたちにみんなで分けてもらってもいい。あるいは、「今度はお菓子作りをしたい!」とこどもたちが決めれば、私たちスタッフは、全力でその環境を整えます。(もちろん、無理なこともあると思いますが)

散歩やスポーツや読書会、すぐにできることなら、その場で対応します。もしこどもたちの総意で希望があれば、お菓子作りから薪割りまで、できるだけ実現できるようにバックアップします。
その場合も、主役はこどもたち。
ここでは、こどもたちは、徹底的に信頼されます。


こども同士で学びあい、育ちゆく時間のなかで、「大人−こども」の一方的な関係からはなかなか生まれない「他人を思いやる心」「他者と共存するありかた」が自ずと養われていくと、私たちは信じます。



次回は、オラリオ(時間)の後半のお話を。


Gracias,

湯川カナ