■ 山の民と海の民、トムジェリ、メリークリスマス!

どうも、キーワードは『贈与』らしい。いや、私が10年ぶりに帰国した日に総理になられた方が母親からえらいぎょうさん貰っていたらしいという時事問題のことではなく。ビジネスとはなにか。あるいは「ビジネスをする人間とはなにか」を考えたとき、どうもその起源にあるのは、「山の民の余ったキノコと、海の民の余った貝を、等価交換」というごくプラクティカルでドライなものではなかったのではないか、という話。

山の民が、たとい日常生活で不足しがちな栄養分を欲していたとして、初めて見た異界(海の民)の「得体の知れないもの」を指して、「ちょいとそこのお方。そなたの手にする『血中コレステロール値を下げる効果をもつタウリンを豊富に含み、海のミルクとの別名をももつ』ものな、そなたひとりで消費するには多きに過ぎるであろう。どうじゃ、わしのこの『低カロリーで食物繊維に富み、カルシウムの吸収を助けるビタミンDと同様の働きをするエルゴステリンも含み妊婦や成長期のお子様におすすめの』ものと、交換してみやせんかね。うむ、そちらが1につき、こちらが3あたりが妥当かのう?」と言うだろうか。SOHOプラザ起業セミナーのマーケティング編担当の先生も言っていたように、消費者は、「知らないものは欲しない」。しかも、「初めて」のやりとりに、すでに「相場」があるわけもない。

そうではなく、ビジネスの起源は交換ではなくて「贈与」なのである。これが、5年前より(ヴァーチャルに)師事する内田樹先生の教えのひとつだ。うろ覚えで再現するなら、「山の民は、海の民に、海の民にとっては『なんだかわけのわからないもの』(=それはキノコであり、山の民はよく知っている「良きもの」)を贈ってみた。わあ。なんだかわからないけど、もらっちゃったよ。そこで海の民は、山の民に、山の民にとっては『なんだかわけのわからないもの』(=それは貝であり、海の民はよく知っている「良きもの」)を贈ってみた。エヘ、なんだかうれしかった」という、至極わけのわからないことだったのではないかという話。
……というのがすでにさっぱりわけわからんぞ。ええとつまり、ビジネスの起源は「交換」ではなく「贈与」であり、そしてその「贈与」へと人間を突き動かした力の根源は、「他者とコミュニケーションしたい」という欲望にあるのではないか。たしかそういうことを内田樹先生は言っていて*1、そこでamazonでいうところの「あわせて読む」かんじで現在『純粋な自然の贈与』(中沢新一講談社学術文庫)を読んでいるところです。今朝の「はばかり」にてまず第一章、すでに猛烈に面白い。


浮気した奥さんやらノラやらが「私だって、妻である前に女なのよ」と言うのと似て、あるいはトムとジェリーが猫や鼠である前に「いきもの」であるのに似て、私たちだって「消費者である前に人間」だ。「消費者」というのはビジネスが始まったあとに(あるいは同時に)立ち上がるものだが、そのビジネスを立ち上げたのは人間だ。「知らないもの」を、マーケットという枠組みで語られる消費者は欲することができないけれど、「野生の(=sauvageですね)」人間は欲することができる。
海の民と山の民が初めて出会ったそのとき、まだ「ビジネス」は始まっていない。共通の価値基準も度量衡もない。互いが手にするぐにゃぐにゃしたものがなんだか、まったくわからない。ただ、自分はそれが「食べ物」で、「美味しくて、元気になる」「よきもの」であることを知っている。「あなたも、どう?」 おずおずとそう差し出す手こそが、ビジネスの始原ではないか。
……って考えたほうが、楽しい。「山の民は不足しがちな塩分を、」と考えるより。私は専門家ではない、人間の歴史と同じくらい長く続いたシステムの起源の正否を明らかにする能力もなければ気力も時間もない。だから、「どちらが正しいか」ではなく、「どちらが楽しいか」で考える。というわけで、「ビジネスの起源は贈与」説に一票、これはビジネスという文脈における自分のふるまいすべてを賭けるという意味で。


なぜ(リアルに金に詰まっているのに)こんな迂遠なことを考えているのかというと、このところ、「事業計画書」作りに没頭しているからです。事業計画書とは、恥ずかしながら起業を考えるまでまったく知らなかったのだけど、ビジネスの骨格をなすもので。イメージでいうと、国における「憲法と予算」みたいなものかな。違うかな。ビジネスというフィールドで、自然な人間ではなく「企業体」というフィクションの「人格」を創出し、そやつに賦活するための、ロゴス(←ほんとかよ)。
たとえば「国家」って、フィクションだ。「見たやついるか?」と訊けばわかる。あるいはバルセロナっ子に「スペイン人ですか?」と訊けばわかる。「俺はカタルーニャ人だ!」と怒られるから。そんなフィクションの「国家」をこの世に「存在」させるための骨組み、とくにその「背骨」となるのが、憲法だ。アメリカ合衆国の例がわかりやすい。ヨーロッパからの落人たちが描いた理想の国家を現実化させる営みこそがあの国の「始原」であり「現在」だ。スペインとて、8世紀にジブラルタル海峡をわたってきたイスラム教徒に追われて山中に潜んだ「4人のキリスト教徒」たちの、現実にはなく過去にもなかった「神の国」の「再征服(レコンキスタ)運動」が始原であり、コロンブスフランコを通って、いまもなお現在だ。日本は、……現在放映中の「坂の上の雲」を観るよろし、かな。

株式会社なら「定款」がそれにあたるのだろうが、ともかく自然の存在ではなくフィクション的に立ち上げる企業体(商法上はその名も「法人」)に、なにをさせるのかを決めるのが、事業計画書。あるいは「ビジネスのプログラミングやってます」というのが、今日的ワーディングか。私のイメージとしてはもっとローテクな、鉄人28号を動かすリモコンの……やっぱプログラム書き、か。
ただし、ソフトウェアやロボットと違って企業体は、ビジネスというフィールドではそれ自身が固有の生命をもつ。この「生命」は、とくに組織が大きくなっていけばいくほど、ファウンダーの意図を大きく超えて、それ自身の運動の力で動いてゆくだろう。たとえば司馬遼太郎的に言うならば、日本帝国陸軍統帥権という化物を手中にして独走し、幕末に散った数多の若者の理想を土に生まれた未熟なしかし希望に充ちたこの国を破滅に追いやった、というような。……下手だな。
ともかくそういうイメージでいくと、私たちはいま、幕末の志士のように意気盛んに、「この国の」もとい「この企業のかたち」を思い描いて文章に書いているところだ。なるほど、楽しいわけだ。


事業計画書は、いま私が考えている分には、大きく4つのパートからなる。ひとつは、事業の定義(事業プラン名、事業概要)。次に、その起源を示すパート(事業の理念、創業者プロフィール)。そして、事業の実現性(市場や顧客の分析、具体的なプラン)。最後に、資金面の話。なんせ、ビジネスというフィールドの共通言語は「カネ」ですから。
というわけで、頭から順に取り組んでいって、「事業の理念」について考えていくうちに、「山の民と海の民の出会い」まで行き着いてしまったというわけでした。果たしてここから折り返して、実際に扱う商品の市場内の位置づけやら損益分岐点算出やら資金計画完成まで、ぶじに年内にたどり着けるのだろうか? いや、やらなあかん。

なんでも鳩山内閣発足から今日で100日とか。ということは私たちも帰国から100日。ハニムーン期間も終わって、今日から荒波もろかぶりで行くっきゃない、か。あらまでも聴こえてくるのはジョン・レノンの柔らかな歌声、「戦いは終わったよ、そう望むのならね」。思えば10年ぶりに迎える日本でのクリスマスとお正月。ヤマタツの曲や、イチゴの乗ったホールケーキの列が、妙にくすぐったい。スペインの大事なひとたちは、今夜もトゥロン(石ほど硬いヌガー)にかぶりついているのだろうか。「サンタクロースはグローバリゼーションがスペインに呼び込んだ悪だ!」と息巻いているだろうか。

とまれ、ハッピー・メリー・クリスマス! よいお年を! 


【今日の「社長」】 娘を保育園に送ったあとのランニング開始。帰宅後、シャワー室から大きなくしゃみが聞こえてきたが、だいじょうぶか? 事業計画書では資金のパートを担当。現在、「弥生会計」をすぐ買うべきか思案中。「だって収入ないのにさ」、たしかに。


▽リファレンス

純粋な自然の贈与 (講談社学術文庫)

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人形の家 (岩波文庫)

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トムとジェリー VOL.1 [DVD]

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・最近、娘が例の主題歌を気に入って、私にも歌ってとせがむ。いつもの調子で「♪トームっとジェリー(藤尾!)」と歌ってあげてたら「社長」にどつかれた。

この国のかたち 一 (文春文庫)

この国のかたち 一 (文春文庫)

レノン・レジェンド~ザ・ヴェリー・ベスト・オブ・ジョン・レノン~

レノン・レジェンド~ザ・ヴェリー・ベスト・オブ・ジョン・レノン~


・トゥロン。

*1: 「働く」ことの本質は「贈与すること」にあり、それは「親族を形成する」とか「言語を用いる」と同レベルの類的宿命であり、人間の人間性を形成する根源的な営みである。2009年12月16日付内田樹ブログ「ひとはどうして労働するのか」より。